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満光寺の創建と寺領メモ

2014/11/02 満光寺について少し調べてみました。

西暦 和暦 来 歴 メ モ(出典は下記)
860 貞観2 貞観二年(860)伝教大師最澄の高弟天台宗の僧 圓仁が、五反田、岡の地に創建した。
圓仁(794-864 貞観八年慈覚大師と送りなされる。仁寿四年(854)第三世天台座主)
1528-
1531頃
享禄元-
4頃
応仁の乱以降、世は荒れ仏道は光を覆い満光寺も衰退の一途を辿っていた。
享禄年間(1528-)今川義元の幕下、井伊直盛に仕えた山吉田の士豪、鈴木長門守重勝は、この満光寺の現状を嘆きその再建をはかった。
1532 天文元 鈴木長門守重勝は天文元年(1532)曹洞宗無着派の朝堂玄賀和尚を川路村勝楽寺より招聘して開山とし、柿本城下の東渓に移転したのが現在に見る満光寺である。
1568 永禄11 徳川家康は、武田信玄との約によって遠州攻略にのり出す。井伊谷の家臣団の内、井伊谷三人衆、鈴木三郎太夫重時(重勝嫡子・山吉田城主)、近藤岩見守康用(後の宇利城主)、菅沼次郎右衛門忠久(長篠菅沼支流・都田城主)を徳川方に誘引する謀議をはかった。
家康からこの誘引について命じられた野田城主、菅沼定盈は、一族である、菅沼次郎右衛門忠久に家康への帰属を勧める一方、満光寺住職朝堂玄賀和尚に誘引策を議し協力を求めた。満光寺住職朝堂玄賀和尚の働きもありついに三人衆は家康の旗下に加わることとなった。
1570-
1572頃
元亀元-
3頃
徳川家康が武田信玄の軍勢に追われ山吉田まで退いてきて夜になり満光寺に一夜の宿を頼んだ。和尚は快く引き受けた。そのとき家康は和尚に明朝一番鶏が鳴いたら必ず起こすように頼んだ。どうした訳かその夜は、鶏が真夜中に大声で鳴いた。和尚は約束どおり家康を起こすと、家康は飛び起きて手早く支度して礼をのべ寺をたった。その後すぐ、武田軍の追って山県三郎兵衛昌景が寺を囲んだ。こうして家康は命拾いをした。(やまよしだ昔話より)
1572 元亀3 武田信玄は、浜松の徳川家康攻略のため、山県三郎兵衛・秋山伯耆守・山家三方衆(作手村の奥平信昌(奥平貞昌)・設楽町田峰の田峰菅沼氏・長篠の長篠菅沼氏(田峰菅沼氏が本家筋))の大軍を率いて信州路より井伊谷に向かう途中、山吉田の柿本城(城主鈴木平兵衛重好・わずか15歳・重勝孫)に攻めかかった。柿本城は城兵五百ばかり城普請の途中であったため満光寺住職朝堂玄賀和尚などの働きで城を明け渡し遠州の仏坂まで退いた。
(三州山吉田誌では、1571年元亀二年となっている。)
1601 慶長6 徳川幕府が全国的に検地を実施。幕府直轄天領となっていた山吉田村は、検地奉行;伊奈備前守忠次による検地を受け、満光寺を止宿とした。このとき伊奈備前守が満光寺の由緒を尋ね、山家三方衆の誘引、柿本城開城など満光寺住職朝堂玄賀和尚の功績がわかり「御当家に附いて功有開山也、且又古跡の霊地なり」として三石の黒印を受領した。
1649 慶安2 この年青龍山満光寺に幕府より御朱印寺領二十石を賜った。
慶安年間に入り徳川家光により鳳来寺境内に東照宮廟社造営がはかられた。造営を命じられた御造営奉行浜松城主太田摂津守は、鳳来寺への道すがら満光寺へ寄泊した。また、将軍家光の代参 杉浦内蔵之烝・同姓市十郎が、鳳来寺往来の折、満光寺に寄宿した。これらの機会に、満光寺の古跡・開山を尋ね、徳川家に由緒あることを聞き御朱印頂戴を勧められ、関係方面の援助を受けて話が進められたもよう。満光寺三世萬年和尚の時代である。

  慶安年間 三代将軍徳川家光は、祖父家康が鳳来寺薬師の生まれ変わりと聞いて鳳来寺山上に東照宮を建て家康をまつった。その寺領として海老菅沼家の領地を割いて与え、代わりとして幕府直轄天領だった山吉田を海老菅沼家の領地とした。
天領時代は四公六民であったが菅沼領となってからは次第に年貢の率が高くなり、しまいには六公四民となって、農民の生活は厳しくなったがじっと我慢せざるを得なかった。
このとき満光寺の鶏には、三石の扶持が与えられていたので鶏の身分がうらやましくなり次のような民謡が生まれた。(やまよしだの昔話より)

  「山の吉田の 満光寺様の とりになりたや にわとりに」
1657 明暦3 慶長年間から幕府直轄だった山吉田村は、この年海老菅沼領となった。この検地の際、満光寺の御朱印寺領二十石の内八石余、鈴木長門守寄進の寺領、庄屋兵左衛門の除地二反などことごとく没収された。
1710 享保7 満光寺の寺領二十石の内八石は、明暦検地で海老菅沼家の没収となっていたが、長年再下願いの労苦を重ねようやく二十石の御朱印を受けた。
  出典: 山吉田の古刹 青龍山満光寺覚書(山吉田郷土研究会編 平成8年2月)
三州山吉田誌 年表編(山吉田郷土研究会編 昭和31年9月)
やまよしだの昔話(山吉田郷土研究会 昭和37年5月)


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