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「鳳来寺町の史跡・名勝の紹介です。」

鳳来寺山は、自然・文化・歴史など学術上貴重なものがたくさんあります。
山岡荘八の小説「徳川家康」にも出てくる鳳来寺山や長篠の戦いです。

<< ほうらい観光ガイド(鳳来町観光協会資料)より >>

●長篠の戦い●鳥居強右衛門勝商●鳳来寺山●鳳来寺●鳳来寺山東照宮

● 長篠の戦い

長篠城は永正5年(1508)に菅沼元成が築いたもので、豊川と宇連川の合流点の要害を二方に利用し、北方に人工の堀と土塁を築いた堅固な城である。
長篠城本丸跡
戦国の世の常として、はじめは今川に属し、やがて徳川、武田にと帰属をかえ、天正元年(1573)に再び徳川の属城となり天正3年には、弱冠21歳の奥平貞昌(後の信昌)が城主となった。

元亀3年(1572)12月、武田信玄は浜松城の徳川家康を三方原(静岡県浜松市)におびき出して破り、翌元亀4年三河に入り、野田城をとったが、病気を得て甲州に引き返す途中で病死した。

その子勝頼は、父の意志を継いで上洛を決意し、天正2年、足助、明知、高天神の諸城を陥れ、天正3年には一万五千の大軍を持って長篠城を囲んだ。
城主貞昌はわずか五百の兵をもってこの攻撃に耐え、鳥居強右衛門勝商の活躍などもあって、織田、徳川連合軍大勝の機会をつくった。

連合軍は、設楽原(新城市)に進出し、武田軍をおびき出して一大戦闘を展開した。
この戦いは、攻城と野戦を兼ねたもので、連合軍は、はじめて三千挺という当時としては極めて大量の鉄砲を巧みに使って1日で勝敗を決し、従来の戦術を一変させた。武田軍は宿将の大部分を失って決定的な打撃をこうむり、織田・徳川の制覇は絶対的なものとなった。

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● 三河武士の意地を見せた鳥居強右衛門

天正3年(1575)5月、武田軍一万五千の大軍に包囲された長篠城は、城主貞昌以下わずか五百の兵でこの猛攻を防いだが、戦況は日毎に悪化してきた。城主貞昌はこの包囲網を突破し、家康に救援を求める使者として、鳥居強右衛門勝商に命じた。
5月14日の夜、野牛門の不浄口から豊川に降り、長走りで鳴子網を破り、約4km下流に上陸し、西方の雁峰山を目ざした。ここで「脱出成功」ののろしを上げ、15日に岡崎城に入り家康、続いて信長に救援を求めた。

勝商は、城の危急を思い、とって返して16日に再び雁峰山で「援軍来る」ののろしを上げた。さらに城内潜入を図ったが捕らえられ、「援軍来来たらず」と言わされるところ、城に向かって「援軍来る」と敵を欺き敵兵の槍先に散った。

城兵は感激して城を死守し、織田・徳川連合軍の大勝を招く要因をつくり、武士の鑑として讃えられてきた。

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● 鳳来寺山

昭和6年7月31日 国指定 名勝天然記念物

鳳来寺山の最高峰は瑠璃山(標高695m)で、流紋岩、松脂岩、凝灰岩などから構成され、約2,000万年前に激しい火山活動によって噴き出し、その後の長い間の風化浸蝕作用によって今日のように複雑で険しい地形ができあがったもので、山の斜面は急で、奇岩がそびえ、数10mの絶壁をなしているところが多い。

山頂近くの奥の院からは、目前に東三河から渥美半島までの眺望を楽しむことができます。表参道から石段を登ると両側は老杉がうっそうと生い茂り、昼なお暗く5月から7月にかけては霊鳥仏法僧の声を聞くことができる。

鳳来寺山登り口

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● 鳳 来 寺

真言宗五智教団の本山。
文武天皇の大宝3年(703)利修仙人による開山、のちに源頼朝の再興と伝わり、利修仙人作の本尊薬師如来を祭り、薬師信仰と山岳修験道の霊山として信仰を集めた。

江戸時代になってからは、松平広忠と夫人於大の方が鳳来寺の峯薬師如来に子授けを祈願し、家康を授かったという徳川家康誕生の縁起によって幕府のあつい保護を受け、3代将軍家光の時には21院坊、寺領千三百五十石という盛大さであった。

遙かに望む鳳来寺の鐘楼(左上)本堂(右下)
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● 鳳来寺山東照宮

昭和28年11月14日 国指定 重要文化財

慶安元年(1648)4月、3代将軍徳川家光が日光東照宮参詣の折り、「日光東照宮御縁起」をみて、家康の父広忠が夫人於大の方とともに鳳来寺の本尊峯薬師如来に祈願して家康が生まれたことを知り、報恩のため東照宮の建築を命じ、4代将軍家綱が慶安4年9月完成させた。

東照宮

全国には多くの東照宮があるが、日光、久能山とともに三東照宮と呼ばれている。

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