<< ほうらい観光ガイド(鳳来町観光協会資料)より >>
元亀3年(1572)12月、武田信玄は浜松城の徳川家康を三方原(静岡県浜松市)におびき出して破り、翌元亀4年三河に入り、野田城をとったが、病気を得て甲州に引き返す途中で病死した。
その子勝頼は、父の意志を継いで上洛を決意し、天正2年、足助、明知、高天神の諸城を陥れ、天正3年には一万五千の大軍を持って長篠城を囲んだ。
連合軍は、設楽原(新城市)に進出し、武田軍をおびき出して一大戦闘を展開した。
勝商は、城の危急を思い、とって返して16日に再び雁峰山で「援軍来る」ののろしを上げた。さらに城内潜入を図ったが捕らえられ、「援軍来来たらず」と言わされるところ、城に向かって「援軍来る」と敵を欺き敵兵の槍先に散った。
城兵は感激して城を死守し、織田・徳川連合軍の大勝を招く要因をつくり、武士の鑑として讃えられてきた。
鳳来寺山の最高峰は瑠璃山(標高695m)で、流紋岩、松脂岩、凝灰岩などから構成され、約2,000万年前に激しい火山活動によって噴き出し、その後の長い間の風化浸蝕作用によって今日のように複雑で険しい地形ができあがったもので、山の斜面は急で、奇岩がそびえ、数10mの絶壁をなしているところが多い。
山頂近くの奥の院からは、目前に東三河から渥美半島までの眺望を楽しむことができます。表参道から石段を登ると両側は老杉がうっそうと生い茂り、昼なお暗く5月から7月にかけては霊鳥仏法僧の声を聞くことができる。
江戸時代になってからは、松平広忠と夫人於大の方が鳳来寺の峯薬師如来に子授けを祈願し、家康を授かったという徳川家康誕生の縁起によって幕府のあつい保護を受け、3代将軍家光の時には21院坊、寺領千三百五十石という盛大さであった。
慶安元年(1648)4月、3代将軍徳川家光が日光東照宮参詣の折り、「日光東照宮御縁起」をみて、家康の父広忠が夫人於大の方とともに鳳来寺の本尊峯薬師如来に祈願して家康が生まれたことを知り、報恩のため東照宮の建築を命じ、4代将軍家綱が慶安4年9月完成させた。
● 長篠の戦い
長篠城本丸跡
城主貞昌はわずか五百の兵をもってこの攻撃に耐え、鳥居強右衛門勝商の活躍などもあって、織田、徳川連合軍大勝の機会をつくった。
この戦いは、攻城と野戦を兼ねたもので、連合軍は、はじめて三千挺という当時としては極めて大量の鉄砲を巧みに使って1日で勝敗を決し、従来の戦術を一変させた。武田軍は宿将の大部分を失って決定的な打撃をこうむり、織田・徳川の制覇は絶対的なものとなった。
● 三河武士の意地を見せた鳥居強右衛門
● 鳳来寺山
鳳来寺山登り口
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● 鳳 来 寺
文武天皇の大宝3年(703)利修仙人による開山、のちに源頼朝の再興と伝わり、利修仙人作の本尊薬師如来を祭り、薬師信仰と山岳修験道の霊山として信仰を集めた。
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遙かに望む鳳来寺の鐘楼(左上)本堂(右下)
● 鳳来寺山東照宮
東照宮
全国には多くの東照宮があるが、日光、久能山とともに三東照宮と呼ばれている。
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太田幸男____ |
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