この地は下吉田の金淵と称し、黄柳川がここにて直角に曲がって流れるために川は山に迫り、その間を通っていた道は、きわめて危険な場所でありました。そのために、人々がここを往復する困難は言語に絶するものがありました。読んだ本「やまよしだの昔話」(昭和37年発行)からの抜粋です。 (編集:「山吉田郷土研究会」、会長 田中 正さん)
そうした人々の困難をなくそうと考えていたのが、当時の庄屋鈴木兵左右衛門重英と、その仲間の馬場権兵衛の二人でした。しかし、このような難所をなくするということは、決してたやすいことではありませんでした。そこで二人は当時満光寺にいた客僧に、このことを話して協力を得ました。快く庄屋たちの依頼を引き受けた客僧は、終始熱心に庄屋たちに協力しました。時には人夫を督励して工事の指揮に当たり、時には自らのみをふるって働きこの難工事の完成に努力いたしました。やがてこの大工事も出来あがり、人々は容易に、この地を通過することが出来るようになりました。
しかし、この大工事が終わると、この奇篤な客僧は、住所はいうまでもなくその名も告げずいずこへか立ち去ってゆきました。村の人々は、この奇篤な客僧の行いに感激し、村の義人という意味で、村義と石に刻んで長くその得を慕いました。この工事の完成したのは文政8年(1825年)といわれ、石の位置も、その後再度この淵の工事を行ったため、移動させて現在の位置になったといわれております。
太田幸男____ |
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